知って納得!史記から学ぶ故事成語10選

まとめ

みなさんは史記をご存知でしょうか?

中国の歴史好きの方は一度は読んだことがあるかもしれませんが、中国前漢時代の司馬遷がまとめた歴史書です。その歴史の範囲は広く伝説上の五帝の一人である黄帝から司馬遷の生きた前漢の武帝までの時代をまとめています。

特に司馬遷が生きた漢については実際にゆかりのある土地へインタビューを行っており、詳細な記述となっています。

今回はそんな史記にスポットをあてて、中国の言葉が語源となった故事成語を10個ご紹介します。

※ランキング形式ではなく、語源の年代順に記載しています。

1 酒池肉林

司馬遷によって編纂された中国の歴史書『史記』「殷本紀」に記された一節が語源である。殷の紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、その言うがままに日夜酒色に耽り、民を虐げた(とされる)故事に由来する。

酒池肉林 – Wikipedia

これは殷の紂王がその名の通り、酒の池を作ったり肉を木に吊るして林としたりするなどし、妲己の歓心を買うことが語源となっています。現代では過度に贅沢していることを表現する際に今でも使われていますね。

2 臥薪嘗胆

『史記』によると、紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した臥薪、この記述は『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。
まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵にt励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。

臥薪嘗胆 – Wikipedia

語源は上記の通りです。その後、勾践は臥薪嘗胆し呉王夫差を破り滅ぼしています。

現代では復讐のために時期を待つ・苦労を耐えるという意味で使われています。

3 飛鳥尽きて良弓蔵せられ、狡兎死して走狗煮らる

鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば猟犬も煮て食われるという意味です。

中国春秋時代後期の越王勾践 (こうせん)の時代の話です。越王勾践が呉王夫差を破ったあと、勾践の謀臣として活躍した范蠡(はんれい)がこの言葉を友人に語り、その後勾践の元を去って大商人となり華麗な転身をして成功しています。

勾践は苦労は共にできるが栄華を共にできるような人物ではなく、敵がいなくなった今、有能な家臣は裏切りを警戒されかえって邪魔な存在とされてしまうこともあるため私は去るのだ、あなたも考えたほうがいいと友人に諭したとされています。

4 寧ろ鶏口となるも牛後となるなかれ

「鶏口」=鶏の口、つまり小さなグループのトップを意味する
「牛後」=牛の尻や尻尾、つまり大きなグループの末端を意味する

企業で例えるなら大企業の末端のサラリーマンとして働くよりは小さい企業でも経営者として働くほうがいいという意味で使われます。

これは、中国の戦国春秋時代の遊説家である蘇秦が各国の国王を説得する際に使った言葉とされ、大きな国(中華統一前の秦)に従属するよりも小さな国でも国王であり続けるほうがいいという意味で、小さな国を6国も同盟させ秦に対抗させたと伝わっています。

5 完璧

完璧とは現在では欠点がなく優れていることを例えるときに使われますが、これも中国の故事成語です。

これも中国の戦国春秋時代に由来しています。

当時、和氏の壁(かしのへき)と呼ばれる趙国の宝物を秦国が15城と交換してほしいと申し出てきました。

秦国は既に当時大国で正面から逆らえる国が存在しませんでした。

一歩間違えれば和氏の壁をそのままだまし取られるか、申し出を断ったとしてそれを口実に攻め込まれる恐れがありました。そのため敵地に赴く使者を選ぶのに一苦労。

その時、趙国の国王の家臣に自分の食客である藺相如(りんしょうじょ)を推挙する者がおり、藺相如が交渉に赴きました。

藺相如は強国秦国の国王を前にしても一歩も引かず、秦国の国王に15城を交換する気がないと見ると隙を見て趙国へ帰り、趙の国王へ和氏の壁を傷一つつけず持ち帰りました。

このことから中国語では「完璧帰趙」(元のままの璧が趙に帰る) といって完璧の語源となりました。

6 刎頸の交わり

刎頸の交わりとは「お互いに首()をねられても後悔しないほど信頼している関係」を意味していますが、こちらも5と同じく藺相如の話が語源となっています。

藺相如は数々の功績をあげて、家臣の食客の身分から国の大臣を務めるほど出世していました。その藺相如を廉頗(れんぱ)という将軍が口先だけの輩と嫌っていることを知って、なるべく顔を合わせないようになりました。

ある時、 藺相如が街を歩いていると廉頗が通ってくることに気づき、物陰に隠れてやりすごしているところを見た家臣は揃って辞職を願い出るようになります。

理由としては自分たちの主人は大臣になるほど大きい人物に思えていたのに、一将軍を怖がっている気弱な主人に見えたからです。

それを聞いた藺相如は家臣に説明する際に、趙国が小国ながら攻められないのは、自分と廉頗将軍が頑張っているからで趙国のためを思えばこそ廉頗将軍と喧嘩しないように避けているのだと語った。

それが廉頗にも伝わり上半身裸になりいばらの鞭を持った上で藺相如に対して 「この愚か者はあなたの寛大なお心に気付かず、無礼をしてしまいました。どうかあなたのお気の済むまでこの鞭で叩いて下され 」と涙ながらに謝罪しました。

藺相如も廉頗を名将と思っていたので、寛大な心で許しそれに感動した廉頗が、「
あなたにならば、たとえこの首をはねられようとも悔いはございませぬ 」と語った。
藺相如も「私も、将軍にならば喜んでこの首を差し出しましょう」 と言い、ここから
お互いに首()をねられても後悔しないほど信頼している関係という意味で刎頸の交わりまたは刎頸の友という語源になったと言われています。

その後の趙国はその通り藺相如と廉頗の二人が健在の間は大敗することもなく、存続していましたが、どちらもいなくなると秦国により滅ぼされてしまいます。

7 士は己を知る者のために死す

これは、自分を知っている・自分を認めてくれている人に対しては、命も惜しまずその人に尽くす事ができるという意味で使われます。

語源は史記・刺客伝にあります。

中国の春秋戦国時代、晋に智伯という者がおり、その智伯は予譲という家臣を厚遇していました。ところが策略破れ、宿敵の趙襄子に滅ぼされてしまいました。
予譲はその恩義に報いるため、趙襄子を討つことを誓った時の言葉とされています。

その後は、刺客として二度趙襄子を狙い一度目は許され二度目は許されず捕らえられてしまいます。その時の問答も有名で、智伯の前に仕えていた主人は智伯に滅ぼされたのになぜ敵討ちをしなかったのだと問われます。「その主人は人並みとして遇したため人並みに仕えたまで、智伯は国士として遇してくれたため国士としてこれに報いるのみ」と答え、その忠誠心に趙襄子を感嘆させています。ただ、それほどの忠誠心があればまだ狙ってくるだろうと思われ、 趙襄子は自分の衣服を切らせ予譲を満足させた後、予譲は自決しています。

8 国士無双

国士無双は麻雀の役名にもなっていますが、「他に類を見ないほど優れている」という意味で使われます。これは前漢を興した劉邦の家臣である韓信を蕭何が褒めたたえた時に使われた言葉です。

韓信は劉邦に仕えて一時は劉邦の部下でありながら天下の1/3の地域を切り従え劉邦に貢献した武将です。

はじめに劉邦のライバルである項羽に仕えていましたが、中々重要な役職に就かせてくれず、後に劉邦に従うようになりました。ただ劉邦も重要な役職には任命せずに韓信はついにほかの兵と一緒に逃げてしまいます。韓信が逃げたと知り、劉邦の最も信頼する部下である蕭何(しょうか)は韓信を追いかけます。この時劉邦は蕭何までが逃げ出したと誤解しています。やがて韓信を連れて戻ってきた蕭何が劉邦に「なぜ他の将軍は追わずに韓信だけ連れ戻したのだ」と問い詰められると蕭何は「韓信は国士無双の人物であり、陣営に二人に一人といない人物です。一地方の領主で終わるなら必要ありませんが、天下を争う意思があるなら必要不可欠です。」と劉邦に答えます。

そして蕭何は韓信を大将軍の位にして大軍の指揮を任せるべきと進言し劉邦はよくその進言を聞き、本当に大将軍にしてしまいます。その期待に応えた韓信は劉邦の漢成立に貢献しました。

9 四面楚歌

四面楚歌は「周りが敵だらけで孤立無援の状態である」ことを指す言葉です。

これは漢を興した劉邦がライバルであった項羽を追い詰めた垓下の戦いが由来となった言葉です。

劉邦は項羽を垓下という地域に追い詰めていました。そこでは既に項羽の故郷である楚の歌が劉邦の陣中から頻繁に聞こえてきていました。項羽は「すでに部下の兵士が寝返ってしまっているのか」と嘆きます。つまり敵に囲まれあらゆるところから楚の歌が聞こえてきている状態「四面楚歌」となっていました。

これを見た項羽は敗北を悟り最後の突撃に出て討ち死にすることとなります。

10 背水の陣

背水の陣は近年では政治家もよく使いますが、「決死の覚悟で物事に望むこと」を意味します。

これは国士無双でも出てきた韓信がとった戦術に由来しています。

項羽と劉邦が戦いを繰り広げていた時、韓信は項羽側の趙国を攻めた井陘(いけい)の戦いで川を背にして戦いました。これは自分の兵に自然と死を覚悟させて必死に戦わせるようにして兵の力を引き出した戦術として知られています。川に背を向け敵を迎え撃ったことでここから背水の陣の故事成語となりました。

韓信は兵法の応用に優れており、一般的な兵法では山に陣取り川に追い詰めることを上策とされていますが、孫子の兵法に「これを死地に陥れて後に生き、これを亡地に置いて後に存す 」とあることを知っており、これを実践したと語っています。これは部下がやる気がない時には死地に追いやってこそ本気を出せると説いているもので、まさに背水の死地においやって部下に全力を出させるという戦術でした。その後韓信は趙国を滅ぼしています。


いかがでしたでしょうか。漢字が中国から伝わったとあって、様々な言葉が中国に由来していますね。言葉の起源をいろいろ調べてみるのも面白いですよ。

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