戦国の成り上がり!下剋上に成功した大名5選

戦国時代

5位 陶晴賢

陶晴賢は今の山口県の辺りに大きな地盤を誇っていた大内家当主の大内義隆に従っていましたが、武断派であった晴賢と文知派を重用していた大内義隆は次第に仲が悪くなりついには謀反に至ってしまいます。

謀反の時・・・(1551年8月28日 大寧寺の変)

8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した(義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある)。そして野上房忠に命じて筑前国を攻め、相良武任や杉興運らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には杉重矩も殺害した。義尊の弟で義隆の次男である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。

陶晴賢 – Wikipedia

しかし、同じくその頃大内家に従っていた毛利元就によって謀反人として陶晴賢は討たれてそのまま滅びてしまいます。

最期・・・(1555年10月6日 厳島の戦い)

弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利氏に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。

陶晴賢 – Wikipedia

この戦いは戦国3大奇襲とも呼ばれており、陶軍が約3万人に対して毛利軍が約5千人と6倍も開きがあるにも関わらず毛利軍の完勝で終わり、厳島に敵を招き寄せ村上水軍の力を借りて一網打尽にした毛利元就の名をさらに轟かせる奇襲戦として名高い戦いとなりました。

厳島の戦い – Wikipedia

この後、大内家が衰退し毛利家が躍進していきます。

4位 武田晴信(武田信玄)

Takeda Harunobu

武田晴信は言わずと知れた甲斐の大名として今の山梨県や長野県の一帯に勢力を誇った大名です。有名な武田信玄という名は出家後の名前なので、下記では晴信として紹介します。

下剋上はなんと自らの父親を追い出し自らが当主となり、しかも返り討ちに合うことなく成功しています。

謀反の時・・・(1541年 武田信玄20歳の時)

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。

武田信玄 – Wikipedia

文献によれば部下も味方しすんなりと下剋上が成功しています。

その後信虎は同盟していた今川家に落ち延び、武田晴信はそのまま甲斐の大名として君臨します。

既にその頃には部下の心を掴んでいて、部下から見ても父・信虎よりも子・晴信の方が当主として相応しいと見ていたのでしょう。

武田晴信が当主となったため、残っている文献に書いてある父を追い出した理由としては、晴信に有利な内容が多くあります。

真偽は不明ですが、信虎は残忍な性格で民からも嫌われ政治的にも良い政治をしていなかったと言われています。

父を追い出すこと自体は戦国の世の倣いもあるのかもしれませんが、人として許されないといった世論は大きくなることなく、その後晴信は部下を大事にし民を大事に政治をする事で富国強兵に成功しています。

参考リンク

3位 斎藤道三(斎藤利政)

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斎藤道三は美濃の国の戦国大名で織田信長のいた尾張の国の隣国に位置していました。

織田信長との関係は娘婿として知られ、斎藤道三の娘である濃姫を織田信長が娶り同盟関係を結んでいます。

その生涯・・・

北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。

斎藤道三 – Wikipedia

謀反の時・・・(1541年-1542年)

天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている[注釈 9]。こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものであった。

斎藤道三 – Wikipedia

成りあがるには今でいうと詐欺に近いような事を行い、主家を乗っ取ったことで「美濃のマムシ」という異名を持っています。

ただその生涯は素浪人から国を取り織田信長との交流や息子に謀反を起こされ生涯を閉じたドラマ性から小説にもなっています。織田信長が主役の映画やドラマにも大体出てきていますね。

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2位 北条早雲

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北条早雲は戦国時代の北条氏の始祖になった人物で伊豆を地盤としてその後北条氏は関東一帯に勢力を広げました。

学校の教科書でも下剋上の典型と言われて知っている方も多いのではないでしょうか。

元々は一介の素浪人が下剋上を果たしたと言われていましたが、現在の研究ではそれなりの領地を持っていて、その後伊豆や相模一帯を攻め落としたとわかっています。

いずれにしてもそれほど権力も土地も持っていなかった人物が己の力で下剋上を起こし戦国末期まで秀吉に対抗した家を作るというのはすごいことですね。

参考リンク

1位 明智光秀

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明智光秀は織田信長の重臣として活躍した武将です。

本能寺の変で主君であり天下人の織田信長を自害させた人物として知られています。その後、羽柴秀吉の中国大返しによって山崎の戦いで敗北し落ち武者狩りによって命を落としたと言われています。織田信長を討ったことは戦国最後の下剋上とも言われており、一時的に天下人の織田信長を討ったことにより三日天下とも言われています。(実際に信長を討ってから自分が殺されたのは13日間)

織田信長を討った後に安土城に籠っていた信長の長男であり跡継ぎでもある織田信忠も追いつめて自害させており、一時的とはいえ下剋上の計画が見事に大成功しています。

謎も多い人物とされており、本能寺の変の理由が未だに議論されていたり、黒幕が別にいるなどの説が立てられていたり、生きて徳川家康に仕えた南光坊天海になったという説もあります。

最期・・・(1582年 山崎の戦い後)

同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したという。 光秀の首は発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口に首と胴をつないでさらされた後、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた(兼見卿記)。『太田牛一旧記』によれば、小栗栖で落ち武者などがよく通る田の上の細道を、光秀が十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されて最期と悟った光秀は首を守護を表す毛氈鞍覆に包んで知恩院に届けてくれと言い残したという。

明智光秀 – Wikipedia

戦国最後の下剋上となり、一時的にでも下剋上を成功させ天下人である織田信長を討ったという事で本記事では1位とさせていただきました。

参考リンク

いかがでしたでしょうか。下剋上というと主君や親を殺して成りあがるというイメージですが、武士道が成立するのが江戸時代のため、戦国時代では戦国の世の倣いとして勝てば何でもありの世の中でした。下剋上を起こした武将たちも自身や家の存続をかけて栄え滅びる様は歴史を感じさせますね。

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